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伝統文化の“型”と新時代の“型破り”

田中みずき/銭湯ペンキ絵師

アスビト創造ラボ ASUBeTO

ASUBeTO : 07 伝統文化×明日人

全身で味わう銭湯絵の醍醐味

大きな湯舟にゆったりと浸かり、「ふぅ~」と大きく息を吐きながら、壁に描かれた雄大な富士山を見上げる——とても贅沢な時間です。そんな心地よい世界を創り出すのが、日本にたった3人しかいない銭湯ペンキ絵師のおひとり、田中みずきさんです。

新聞社で美術記事を執筆していた父親の影響もあり、子供のころから絵を描くことが大好きだった田中さん。明治学院大学で美術史を専攻する過程で銭湯ペンキ絵の魅力を知り、卒論のテーマにと考えていました。その研究の過程で参加したあるイベントで、後の師匠となるペンキ絵師・中島盛夫氏と出会ったのです。ダイナミックにライブペイントをしている姿を見て、
「思わず、『銭湯で描いているところを見せてください』とお願いしました。後日、制作現場を見せていただくと、瞬く間に大きな絵を描く様子に圧倒されてしまったんです」

ほどなく田中さんは中島氏に弟子入り。最初は荷物運びから始まり、壁面以外の場所が汚れないようにカバーをかけるなどの作業を経て、1か月後から「空」を塗らせてもらえるように。そこから次のモチーフを描く作業を任されるまでは、かなり時間がかかりました。

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寿湯(東京都台東区)には女湯、男湯にまたがる大きな空と雄大な富士山が。上野動物園のイメージからパンダとペンギンの姿も

修行9年目でペンキ絵師に

こうして修行を続けながら、大学の卒業論文「銭湯におけるペンキ絵再考―20世紀『富士』画題の定型化について―」を完成させ、大学院卒業後は美術関連本の出版社に就職。平日は会社員、週末は見習いペンキ絵師という日々が始まりました。

体力的にも精神的にも大変な毎日を過ごす中で、田中さんは会社での仕事に少しずつ違和感を覚えるようになります。図書館で調べ物をしたり、論文を描くことが好きだった彼女は、「こつこつとマイペースで働くほうが合っているのでは?」と考えるように。

体調を崩したこともひとつの契機となり、1年半後に出版社を退職。アルバイトをしながら修行を続けることになりました。「ペンキ絵師として『食べていけるのか』という不安は大きかった」といいますが、約10年の修行を経て、2013年に念願のペンキ絵師として独立したのです。

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独立後、何度も描き替えの依頼を受けている寿湯の店主・長沼亮三さんと談笑。銭湯によってはオーナーの趣味やペットなどを描く依頼もあるそう

産後に描いた“古代のオリンピアン”

独立後は、ブログを通して依頼される仕事を少しずつこなしていましたが、ある日、東京都浴場組合から思いがけないオファーが舞い込みます。東京オリンピックの開催に合わせて、大会や東京を盛り上げようとの思いで実施されたイベントでの作品制作です。『テルマエ・ロマエ』で知られる漫画家・ヤマザキマリさんが原画を描き、それを田中さんがペンキ絵にするという内容で、作業開始の2年前から打合せが始まりました。

大学院時代に出会った男性と結婚していた田中さんは、このプロジェクトを進める中で妊娠。ただでさえ体力を必要とするペンキ絵の制作です。出産を経て、すぐに仕事に復帰できるのかどうか……。

誰しも考えるその不安を吹き飛ばすように、田中さんは産後わずか2か月で制作を始めてみせたのです。プロジェクトはオリンピックと共に1年延期されましたが、「『出産後に描いてほしい』と依頼されていた別件があったので、予定通り産後2か月で復帰しました」

その1年後には、ヤマザキマリさんの世界も見事なペンキ絵として完成します。これは、4つの銭湯を舞台に、漫画、幼児番組、アール・ブリュット、現代美術と各ジャンルのアーティストともコラボした大型プロジェクトとして話題になりました。

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普段は青空が広がる壁面にモノクロのペンキ絵が。銭湯の世界観が一変! 八幡湯(東京都渋谷区)にて2021年制作(Tokyo Tokyo FESTIVALスペシャル13 “TOKYO SENTO Festival 2020)。  ※現在はペンキ絵が変わっています

その土地ならではの『富士山』がある

こうして制作実績を重ねるいっぽうで、田中さんは銭湯絵の歴史を研究することにも情熱を傾けます。

「かつては日本各地で描かれていたペンキ絵ですが、昭和の中期から後期にかけて、東京を中心とした関東圏の文化に変わっていきました」

にもかかわらず、今、田中さんのもとには全国各地から制作のオファーが届きます。その中には、地方ならではのユニークな依頼もあるのです。

たとえば、北海道旭川市のサウナ施設から受けた依頼は、「銭湯の絵といえば富士山と言われますが、身近にある馴染み深い旭岳を描いて頂きたいんです。それも雪山ではなく北海道の短い夏の旭岳、大雪山連峰の美しい姿を、常連さんや観光客に見せてあげられたら」というもの。

「東京生まれの私は、『北海道といえば雪山』という思い込みでイメージ図を作成していました。でもこのご依頼をいただいたおかげで、地元の人ならではの想い、その土地その土地の『富士山』があることを知りました」

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SPA & SAUNA オスパー(北海道旭川市)の女湯に夏の旭岳、男湯には山頂の残雪と緑のコントラストがすがすがしい大雪山連峰が出現

銭湯ならではの絵画鑑賞法

また最近は、若い銭湯オーナーたちがSNSなどを活用し、他の銭湯と共に『銭湯のある街』の広報活動を行うほか、企業のPRの場として利用されることもあります。その際、ブランディングを効果的にアピールする媒体として、『ペンキ絵を活用したい』という人が増えています。

田中さんの調べによると、そもそも銭湯絵は宣伝広告メディアとして活用されてきた歴史があり、代表的なモチーフである『富士山』も、「大正時代の広告主のひとつが中山太陽堂(現:株式会社クラブコスメチックス)で、同社は富士山を使った広告やPRイベントを盛んに行っていたことも、定着の一因になった」とのこと。

今も、企業スポンサーが付いた銭湯ペンキ絵は人気があります。熱烈なファンの多いゲームや映画のキャラクターが描かれたペンキ絵です。田中さんはこれまでにスマホゲームのほか、「シン・ゴジラ」「アベンジャーズ」などのペンキ絵を制作。銭湯の高い天井と大きな浴槽、温かな湯気がたちこめる空間で、思う存分“推しの魅力”を堪能するという体験型PRイベントに、ペンキ絵がひと肌脱いでいるのです。

こうしたイベントの情報はSNSで発信できても、銭湯で写真を撮ることは禁止されているので、肝心のペンキ絵の画像は拡散されません。つまり、ペンキ絵を見るには現場に行くしかないのです。

広告を見るために、お客さんがわざわざ時間とお金をかけるというスタイルも、スポンサーとお客さんと銭湯、そのみんながハッピーというバランスも、よく考えると本当に不思議です。

「しかも、みんながお風呂に入りながら絵を眺めるというスタイルは、銭湯ペンキ絵以外にはない絵画鑑賞法ですよね(笑)」(田中さん)

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株式会社レッグスからの依頼を受け、アプリゲーム「アズールレーン」(配信元:Yoster)のPR企画で描かれた大黒湯(東京都墨田区)のコラボ作品。 ※現在はペンキ絵が変わっています

伝統の“型”とデジタル時代の“型破り”

スマホの小さな画面での動画視聴が一般的になっている今だからこそ、大きな壁いっぱいに描かれた銭湯ペンキ絵の魅力が再発見されています。

「動画は動きやストーリーを受動的に消化するものですが、静止画は『ここに描かれた人たちはどんな会話をしているのだろう?』と、見る人それぞれがストーリーを紡ぐ楽しさがあります。これは絵というものの本質的な面白さなので、動画世代の人が増えるほど、ペンキ絵の存在価値は高まるかもしれません」

そんな魅力あふれる銭湯ペンキ絵の“明日の姿”とは、どのようなものでしょうか?

「富士山という伝統的なモチーフと、勢いがある独特のタッチで描く技法は、銭湯ペンキ絵の“型”として残るでしょう。そこに少しだけ新しいものを取り込んだ“型破り”なものは以前から存在していますが、デジタル時代ならではの表現技術が加わった、新たな“型破り”が生まれるかもしれません」と田中さん。

全身で味わう銭湯の醍醐味がこれからどんな風に進化するのか。ゆっくり湯舟に使って考えるのも楽しみです。

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イギリスに本社があるクリエイティブ・エージェンシー「We Are Social Tokyo」(東京都世田谷区)からの依頼で制作した社内の壁画。中央の水色の生物“下北沢をイメージした怪獣”は、なんとAIがデザインしたもの。「AIが描いた絵をペンキ絵にする時代になりました」と田中さんも驚きを隠せません

明日人の目

明日人の目

DXは予想を上まわるスピードで進化し、単純間接労働(定型のプロセスで進むタスク)は、AIやロボットがヒトよりも効率的に行うようになっています。ヒトとAIやロボットが共存する時代に、ヒトがすべき仕事とはどのようなものなのか。“Creativity(創造性)”こそ、これからの人材に求められるもっとも大切な能力ではないか。こうした議論が白熱しています。

“Mr. Creativity ”と呼ばれる作家でジャズ・ピアニストでもあるJohn Kao氏は、こう言います。「Creativeというと、これまでを否定して新しいものを創ることだと考える人がいますが、それは違います。Creativeとは、これまでの経験や伝統に根ざした知恵をもとに、これからの時代の感性を先取りして、見る人聴く人に心地よいアレンジを加えていくことなのです」

「伝統の“型”と新時代の“型破り”」の融合で生まれる田中みずきさんの「銭湯ペンキ絵」は、まさに今、時代が求める “Creativity(創造性)”の象徴。銭湯の未来に新たな可能性を創造しています。

アスビト創造ラボ 編集長

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PROFILE

田中みずき(たなか・みずき)/銭湯ペンキ絵師

1983年生まれ。明治学院大学在学中に銭湯ペンキ絵師・中島盛夫氏に弟子入り。大学院、出版社勤務を経ながら修行を継続。副業として始めたネットライター業から、アートレビューサイト「カロンズネット」の編集長に就任。2013年にペンキ絵師として独立し、「便利屋こまむら」を営む夫・駒村佳和氏とともに銭湯ペンキ絵を制作。展覧会やイベント、ワークショップを通してペンキ絵と銭湯文化を伝える活動のほか、Audi Japan、BEAMSほか、企業案件の制作も精力的に行う。令和3年5月、著書「わたしは銭湯ペンキ絵師」(秀明大学出版会)を上梓。

  • 銭湯ペンキ絵師見習い日記 (田中みずき 銭湯ペンキ絵制作記録)  http://mizu111.blog40.fc2.com/
  • 取材協力/東上野 寿湯  http://www7.plala.or.jp/iiyudana/
  • 撮影/磯﨑威志(Focus & Graph Studio)  
  • ※「旭岳」「大雪山連峰」(オスパー/北海道旭川市)、「アズールレーン」(大黒湯/東京都墨田区)、「社内壁画」(We Are Social Japan/東京都世田谷区)の画像は田中氏の提供による。 
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